どこか遠くへ行きたいと思った

社会人になって早10年近くが経とうとしている。学生時代よりかは確かに経済的に豊かになったし、人との付き合いも増えた。人との付き合いが増えれば嫌でも嫌いなタイプの人間とも出会うことになる。それは会社の上層部だったり突撃してくる営業マンだったり本当に色々とあるけど、社会人はなぜいつも人と繋がっているんだろう。そしてなぜ嫌いな人間はいつも自分の期待を裏切ってくるんだろう。おそらくお互いがそんなことを思いながら今日を生きるために会社へ行く。

そしてふと思う。どこか遠くへ行きたい。

普段住んでいる地域から離れ、誰も知り合いのいない見知らぬ街へと出かける。
カメラを手にして旅へ出る。

そんなブログです。

初心を忘れないためにこのページは固定にする。

プロフィール

ペンネームとブログタイトル

ペンネームは「あうりん」で、由来は漫画家の平尾アウリ先生から拝借。この名前をつけた当時は20歳で、アニメにしろマンガにしろ何かとひらがな4文字が流行っていた。名前をどうしようか考えていたとき、ふとマンガの背表紙に書かれたとある作者名を見て「あうりん」とした。30歳を超えた今ひらがな4文字がかわいすぎて逆につらい。でも10年間押し通してきたペンネームだし、なんなら人生の3分の1を共にしてきたと考えれば今更変えられないような気がしている。

ブログタイトル「ふぉとりっぷす」はこのブログの主題である「Photo(写真)+Trip(旅行)」の組み合わせから。ひらがな4文字のペンネームがかわいすぎて苦しんでるのに、結局ひらがなタイトルにしてしまうのは意味不明の挙動。ひょっとしたら変えるかも。

【2023年11月29日 追記】
ひらがなのかわいさに耐えきれず「Photorips」に変更。
今更ながら「Photrips」では……? と思うものの、ドメインが「Photorips」なので背に腹は代えられない。写真が主題だからいいのだ。

自己紹介

1991年生まれの福岡県民。中小企業で人事と広報の仕事をしている。趣味は旅行、写真、競馬。
6歳まで埼玉県に住み、父の仕事の都合により小学校入学を前に福岡へ引っ越し。以降福岡に住み続けている。

日常を飛び出したいのか逃げたいのか

あまりにも日常となりすぎたこの福岡をいつか飛び出したいと考えていたが、結局大学、就職しても福岡から逃げられない人生を送っている。
2016年から2019年まで佐賀県鳥栖市に住んでいたけど結局仕事は福岡で続けたし、結婚して子供が生まれたのをきっかけに福岡で分譲マンションを購入した。もはや福岡と共に生きている。
それでもいつかこの地を飛び出したいという夢は持ち続けている。具体的には山陰がいい。もしくは北海道。

山陰地方が好き

地図帳を眺めた少年時代とある気づき

小学校~高校と社会の教科書である地図帳を読むのが楽しくてしょうがなかった。大嫌いな数学の時間はいつも地図帳を読んで過ごしていた。
今では暇さえあればGoogleマップを眺めている。
というわけで子供の頃から自然と頭の中に日本地図と各都道府県の位置が頭の中にインプットされているんだけど、そこで気づいたことがある。

福岡県と島根県は意外と近い。山口県を挟んだ二つお隣なんだから近いに決まっているだろうと思うかもしれないが、福岡在住の人に聞きたい。

あなたはこれまで島根県を旅行で訪れたことがありますか?

僕は28歳まで島根県を訪れたことがなかった。旅行好きを自称しておきながら距離的に近いのに、これまで縁がなかったのはなぜか。

それは圧倒的に交通アクセスが悪いところにあるんだ。
新幹線は通っていないし、在来線は3時間に1本程度。出雲までの飛行機はあるけど距離にして運賃が高い。ほぼアクセスは車に委ねられる。その上島根県内の高速道路はぶつぎり状態だ。

そういう状況なのでなかなか島根県に行く機会がなかった。

人生初の島根県

初めて島根県を訪れるきっかけとなったのが、妻の地元である山口県へ帰省するタイミングだった。

妻の地元は山口県の瀬戸内海側なんだけど、そのときは岩国市錦町を経由することになった。
福岡から錦町へ向かうには、中国自動車道を通って六日市ICで降りなければならない。その六日市ICがある場所が島根県吉賀町だった。

というわけでわりとあっけなく27歳にして島根県を訪れることができた。
訪れると言っても吉賀町で昼ご飯を食べただけでほぼ通過した感じになったけど、それでもあんなに遠い、行きづらいと思っていた島根県にあっさり上陸することができたことは、大げさかもしれないけど27年間の人生で常識を覆された瞬間だった。

人生初の鳥取県

鳥取県を初めて訪れたのは2020年11月のことだった。

GoToトラベルとJR西日本が発売したどこでもドアきっぷを組み合わせることで、新幹線と在来線特急を乗り継いで往復15,000円という破格の値段で鳥取を訪れることができた。どこでもドアきっぷは博多から金沢まで使えたと思うけど、1泊2日の旅程の限界を考え、加えてせっかくならと普段行く機会のない鳥取県を選択した。ちなみに通常料金は片道約15,000円する。

衝撃を受けた鳥取砂丘

鳥取駅を降りて衝撃を受けた。
これが県庁所在地なのかと(失礼)

駅前は人通りが少なく、近くのイオンはガラガラでなんだか暗い。
これはすごいところに来たものだと思った。怒らないでほしい。

しかしもっと衝撃的だったのが鳥取砂丘と「最果て感」だった。

特に馬の背と呼ばれる砂の丘を越えた先に広がる荒波立てる日本海の光景が最果てを強く印象付けた。

中学生のころ熱中していたゲームのひとつに「ワンダと巨像」というゲームがある。
詳しい内容は割愛するが、このゲームの真骨頂は最果てを楽しむことにあった。

主人公が相棒の馬に乗って野生動物だけが存在する大地を駆け回り、マップの端は断崖や砂浜、そして海が広がる。

多感な中学時代に多くの影響を受けた最果ては、まさしく鳥取砂丘で見たものと同じだったんだ。

さらに続く最果て

鳥取県旅行ではレンタカーを借りて県を横断することにした。
海沿いの国道9号線をひたすら西に車を走らせる。
常に視界に入るのは荒々しい日本海。

僕にとっての海といえば博多湾か有明海、もしくは妻の地元である瀬戸内海とどの海も穏やかだ。

ところが今見ている光景は白波と呼ぶに相応しく、恐怖さえも覚える怒涛の海。

方や陸側は深い山ときた。

これを最果てと呼ばずに何と呼ぶのか。繰り返しになるけど怒らないでほしい。

やはりワンダと巨像で養われた感性を揺さぶるには十分な光景だった。

そして山陰地方にどっぷりと浸かるように

鳥取県を横断することに成功した僕は、今度は島根県を横断することにした。
あのとき見た鳥取県とは違い、島根県は穏やかな印象だった。

あれだけ遠かった島根を本格的に旅行し、そして多くの魅力があることを発見していくことができた。

冒頭の「どこか遠くへ行きたい」の「どこか」が山陰地方にあるんじゃないかと思うようになった。

このあたりから動画を撮り始めているので、その様子はぜひYouTubeをご覧ください(宣伝)

山陰地方だからこそ

福岡は曲がりなりにも都会だから、東京名古屋大阪をはじめとした大都市を訪れても完全な非日常を味わうに至らなかった。

だから山陰地方は街の規模や車の数、人の数が少ないし(怒らないで)、古事記の舞台や石見神楽、宍道湖や中海、大山、鳥取砂丘など文化と歴史と自然を味わえる。ここに多くの魅力を感じることができる。

ちなみに真冬の札幌は経験したことのないほどの寒さと大雪を体験することができるから、他の大都市と比べて非日常を楽しむことができる。だから移住するなら山陰地方か北海道がいい。

写真が好き

ここまで山陰地方が好きということしか語っていなかったけど、よく考えたらここはプロフィール記事だった。
というわけでこのブログの主題であるもう一つの写真について語っていく。

写真との出会い

幼少の頃からカメラっていいなと漠然と憧れを抱いていた。
その瞬間をフィルムに残すことができるロマンを感じていたんだと思う。

他にも実家にあったミノルタの一眼レフカメラのメカメカしい姿が少年の心をくすぐるにはちょうどよかった。

とはいえ高価な(我が家比)ミノルタを使わせてもらえることはなく、小学校の修学旅行に持って行った写ルンですが初めてのカメラだった。

とにかく見た景色を写すことが楽しかった。

高校時代に復活を試みた写真部

高校生になって弓道部に入部したんだけど、1年の夏でレギュラーを獲得してしまって先輩から嫌がらせを受けるようになり退部した。

せっかくの高校時代を帰宅部で過ごすには青春が終わると思い、その年で部員がいなくなり休部となった写真部を復活させるために帰宅部2人を集めて計3人で行動することとなった。
まず写真部の顧問に復活の話を持ち掛け、それならば暗室の掃除をしてほしいとの指示を受け、倉庫となってしまった暗室を片付けるところから始めた。

ピッカピカに片付け終え、熱意に打たれた顧問の先生は僕たちを集めて写真講座が開始された。いよいよ写真部が再始動することとなった。

ところがメンバー一人がサルモネラ菌にかかり長期入院、もう一人が陸上自衛隊に入隊することを目指して退学することになった。その時初めて中卒でも陸上自衛隊に入隊できるんだと知ったのはまた別の話。

残ったメンバーは僕一人となり、やがて先生も年度が変わるタイミングで別の学校へ転勤となってしまった。

そうこうして写真部は自然消滅してしまった。
なお今では写真部はきちんと後輩の手によって完全復活を遂げたようで、あのときピッカピカに片付けた暗室が元気に活かされている。

大学時代に初めて買ったコンデジ「Nikon COOLPIX」

バイトして自分でお金を稼ぐようになり、夢のカメラをついに手に入れる。

なんと写ルンですを除き、自分のカメラを手に入れるまで10年近く経過している。

当時すでにiPhone4を持っており、スマホで写真を撮るスタイルは自分の中で確立されていた。
とはいえやはりiPhone4程度ではコンデジと並ぶクオリティではなく、まだまだカメラはカメラ、スマホはスマホと区別がなされていた時代だった。

そんなわけでiPhone4をも超える描写力のCOOLPIXは、10年越しに自分専用のカメラを手に入れた少年(18歳)には輝いて見えた。

社会人になり一眼レフデビュー

社会人を迎えて2年ほど経過した頃、COOLPIXは突然故障してしまった。

これをステップアップのチャンスに転換し、一眼レフを購入することを決意する。

と言っても当時はまだセンサーサイズの違いやメーカーそれぞれの特徴等よくわかっていなかった。
自分の中ではスマホ、コンデジ、一眼レフ。この三種類しかないと思っていた(ある意味幸せ)

いざ買おうとするも一眼レフの高さに腰を抜かす。平気で10万円を超えてくる。

その中でも比較的安価なCanon kissシリーズかNikon D3400のどちらかの購入を検討し、「さすがに男でkissはヤバいか」と謎のプライドを持ってしてNikon D3400に決めることとなった。Canonさんここマーケティング的に正解ですか?

D3400はAPS-Cサイズの一眼レフで、ボディは他の機種と比較すると小さいのに、写し出す写真はコンデジの比ではないシャープさを誇っていた。

特にセンサーサイズが大きくなったことで得られるボケ感には大きく感動した。

そしてD3400を5年ほど使用していくこととなる。D3400がなければ絞り、シャッタースピード、ISO感度等写真の知識はつかなかったと思う。鍛えてくれてありがとう。

フルサイズへ

結婚して子供が生まれ、3歳を迎えた年に「七五三をもっといいカメラで撮影したい」と思うようになった。

本格的にフルサイズ機へ移行することを検討する。
ミラーレス転換期だったため、一眼レフではなくミラーレスを買うことにした。

ミラーレスに移行するにあたり、マウントが変更となることからメーカーに拘りはなかった。

候補はCanon R6、Nikon Z6の二機種だった。あとは実機を触ってフィーリングで選ぼうとヨドバシカメラに向かったけど、展示はあれどどちらも在庫がなかった。
代わりにオススメされたのが現在も使用しているSONY α7Ⅲだった。今振り返ればあの店員はSONYのジャケットを着ていたし、最初からα7Ⅲを勧めてくるシナリオ通りの展開だったのだろう。

七五三まで一週間を切っていたことから、R6とZ6の注文をかけても間に合わないことが判明したのですぐに買えるα7Ⅲを選んだ。

結果として今でも心強い相棒となっているから正解だったと思う。

写真を表現したい

ブログを作る

写真を撮影するからには誰かに見てもらいたい。

SNSでもいいんだけど、TwitterやInstagramは写真の消化スピードがあまりにも早すぎる。
自分が作成したメディアに記録を溜めていけばポートフォリオにもなる。

というわけでこのブログを立ち上げることとなった。
月15本は書き上げていきたい。

Twitterもよろしくお願いします

Twitterはアカウントの転生を繰り返しながら、実は2009年から始めてる古参でもある。

当時は周りにTwitterをしている人なんか皆無だったからか、フォローするアカウントの選択肢が圧倒的に少なかったためすぐにフォロワーが1000人を超えた。今となってはアカウントの選択肢が圧倒的に増えてしまい、逆にフォロワーを増やすのが難しくなってしまった。ブリトニーでキャッキャしていた頃が懐かしい。

そんな僕のTwitterもよろしくお願いします。